じいちゃん…(ToT)

2010年5月3日午前2時44分、じいちゃんが亡くなりました。

こうして文面に書き出すと、悲しみがぶり返してきます。

前回の記事のとおり、GWにいつもどおりに帰省。
てっきり右大腿部頚部骨折後のリハビリをしているもんだと思ってた。

4月30日にじいちゃんの入院してる愛全病院へ行った。
そこにいたのは、もう命の尽きかけているじいちゃんの姿だった。
ばあちゃんから「弱ってしまって、見たら驚くわ」と言われていたがまさかここまでとは…。

肺炎を起こし、酸素3L。
苦しそうに呼吸をするだけで、瞬きをせず目は開いたまま。
呼びかけても応答しないし、手を握っても握り返してこない。
数日前までは握り返してきたらしい。
俺とばあちゃんは一旦家に帰ったが、その夜に担当医師から呼び出しが…。

抗生物質投与も効果認められず、後は死ぬのを待つだけ。」というようなことを暗に言われた。
もうすぐ死んでしまう可能性もあるということで、その日は病院に泊まることにした。
しかし、翌朝まで不安定な状態が続くものの、ある意味安定していたので一旦家に帰った。
ばあちゃんも結構な年だから、徹夜は厳しかったようで「寝ないと倒れてしまう」と言っていたため、
5月1日は病院へは行かず、体力温存。

5月2日、俺が徳島へ帰る日。
帰る前に病院へ。
深夜にSpO2低下したらしく、酸素9Lになっていた。
もう今日明日にも亡くなるだろうということは分かったものの、それなりの準備もあるし、
予定通り徳島へ帰宅。
5月3日午前5時頃、親戚の人から電話。じいちゃんの訃報だった。

葬式の準備をして、その日の最終便で再び札幌へ。
家に着いたのは午後11時頃。
ばあちゃんも親戚の人もすでに寝静まっていた。
仏壇の前にはじいちゃんの遺体が眠っていた。

翌朝起きて、朝ご飯を食べてからじいちゃんを見に行った。
顔面蒼白になったじいちゃんは冷たかった。
母が亡くなった時の記憶が少し甦った気がした。
午後に納棺師が来て納棺。
じいちゃんはきれいに化粧をしていた。
母の時は若かったからか、生前よりもきれいになっていた記憶がある。

その後葬儀場へ行って通夜。
結局1時間ほどしか眠れずに翌日の葬儀。
出棺前の花を添えるところではさすがに泣いた。
今この記事を書いている瞬間も、思い出すと涙がこみ上げてくる。

火葬場には結構人がたくさんいた。
毎日こんなに人が死んで行くのだろうかと思った。
そしてなぜか火葬場に来ている人たちはみんな悲しそうには見えない。
やはり覚悟ができていたらそんなもんなんだろうか。

骨になったじいちゃんを持って再び葬儀場へ。
繰り上げ法要を行い、葬儀は無事終了。

母の時もそうだったが、あまり実感がわかない。
遺骨をみると「ああ、亡くなったんだな」と思うが、写真は見慣れたじいちゃんの姿があるからだろうか。
あまり実感がわかないまま悲しみは薄れていくのだろう。

6、7日は急きょ慶弔休暇を取り、9日まで滞在することに。
翌日(6日)は1日ゆっくりして、7日に親戚の人が帰宅。
ばあちゃんの遺族年金の手続きだけやってきた。

9日の初七日を終えて、徳島へ帰宅。
家に着いたのは午後10時頃。
翌日から仕事が始まったので、今日(15日)まで何もできなかった。

今日、ようやく片づけをしてこの記事を書くことができた。
本当は今日は先輩の結婚式に出席予定だったが、こんなことになってしまうなんて…。

じいちゃん、四十九日にまた行くよ。